大判例

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東京高等裁判所 昭和30年(う)2392号 判決

被告人 中村寅平

〔抄 録〕

論旨第二点について。

所論により本件記録並びに当審における事実の取調の結果に徴するに、被告人は判示のような経緯で山下あき子に交際を求めたいと思い、昭和三十年一月四日午後、同女が働いていた判示かじや雑貨店内において判示のような趣旨を記載した手紙を同女に手渡し、同日午後九時頃、同女より右手紙の返事を聞きたいと思つて、当時同女が居住していた判示坂下武仁方に行き同女が戸外に出るのを待ちながら母屋の雨戸の外にある縁側に寝ていたところ、用便の為戸外に出た判示坂下さわから判示のような冷淡な応待を受け、あき子は戸外に出て来なかつたので、被告人はその後暫くして判示のように右母屋の近くにある納屋に入り、煙草を喫いながらなおも同女を待つていたが、同女は出て来る様子もなく、時刻も遅くなつて来たところから、被告人は判示のようなことを想い起し、同女並びに右さわの態度に憤慨し右納屋に火を放けてあき子やさわ等を驚かせて欝憤を晴らそうという気になり、同日午後十時過から十時半過頃迄の間に所携の燐寸或は吸いかけの火のついたままの煙草を以て、右納屋に立てかけてあつたかやに放火し右かやから同納屋の屋根板等に延焼させて右納屋を焼燬した上、更に火は坂下武仁等の居住する母屋に燃えうつり右家屋をも全焼するに至つたことが認められるのである。

所論は原判決挙示の証拠中被告人の司法警察員並びに検察官に対する供述調書記載の被告人の供述は任意性を欠く旨主張するけれども、本件記録並びに当審の事実取調の結果に徴すれば右各調書はいずれも被告人の任意の供述を録取したものと認められるから右主張はこれを採用しない。

次に所論は、被告人が右小屋で坂下方の十一時の時計を聞いたと述べているのは十時の誤りであり、被告人は正確な時刻で午後十時頃右納屋を出たものである。そして本件はその後相当の時間を経過して発火するに至つたもので被告人の放火によるものでなく、単なる失火と認むべきものであると主張するが前記のように被告人が坂下方の縁側のところに寝ていて坂下さわと問答したのは、坂下さわの供述するように時計が二十分位進んでいたとすれば、正確な時刻で午後九時半頃と認められるのであり、その後被告人は仮睡して目を覚し寒くなつた為納屋に入り煙草を二本喫つた頃時計の鳴るのを聞いたと云うのであるから仮に時計の鳴つたのを聞いたことが真実であつたとしてもそれが十時(右二十分位進んでいた時計の)の聞き誤りであつたとは考えられない。また被告人は納屋を出て火の見のところまで来たとき気持が悪くなりそのままそこに寝てしまい、そこで火事を知つたと云つているが、被告人が十時の時計を聞いて間もなく納屋を出たとすれば正確な時刻では十時前からそこに寝ていたこととなる訳であるが、同夜十時過頃夜警のため右火の見の下を通つたと云う小沢蕃の証言によればその時同所に人が寝ていた事実は認められないから被告人が同夜十時頃右納屋を出たものとは認められない。

また所論は原判決が認めたように煙草の火をかやの間に差し入れて点火したものとすれば判示のように短時間のうちに火が燃え上るとは考えられないとして原判決の事実誤認を主張するのであるが、判示のような方法でかやに火を放け、五、六寸炎が上るのを見てから小屋を出たと云うことは被告人が自白するところであり、右のような方法でかやに点火することは必ずしも不可能ではないと認められるのみならず、また一方被告人が右納屋において燐寸を擦つて煙草に火を点けたこと、及び、その後火災現場にかけつけた当時には被告人は右燐寸をもつていなかつたことは被告人の供述によつて明らかであり、これと先の「炎が五、六寸立ち上るのを見て納屋を出た」旨の供述とを考え合わせるときは、判示のような経緯で、あき子等に対する欝憤を晴らすため放火を決意した被告人が所携の燐寸を以てかやに点火したものと推認することもできないことではない。これを要するに本件火災が被告人の放火によるものと認めた点においては原審認定には所論のような違法があるものとは認められない。

しかし原判決は被告人が判示坂下武仁の住宅を焼燬するかも知れないことを認識しながら本件放火行為を敢てしたものと認定し、被告人の所為を刑法第百八条の放火罪に問擬したものであるが、本件は被告人がその欝憤を晴らす為一時の昂奮にかられて右納屋にあつたかやに点火して精々納屋の一部をやき山下あき子や坂下さわ等を驚かせようとの意思に出たものと認められるのであり、坂下方住宅を焼燬する意思がなかつたことは勿論、右住宅に延焼すべきことを認識しながら敢て本件放火行為に出たものとも認められない。このことは本件火災が起るや被告人は他の人々と共に直ちに現場に立戻つていることや、被告人が警察員の取調に対し、「火事だと云うのであー子(山下あき子の意)の家に皆と一緒に走つて行つて見ると火は母屋の方に燃え移つており、自分でもこんな大火になるとは思わなかつたのでびつくりした」「あー子の家の近くまで来ると母屋の屋根が殆んど燃えていたのでこれはえらいことをした初めは小屋を少し燃やしておばあさんを驚かしてやろうと思つて火を放けたことがこんな大火事になつたと思うと身体がぶるぶるふるえて仕方がなかつた」と述べていることからもこれを認めうるのである。従つて判示と同趣旨に帰する原判決挙示の各証拠はこの限度において真実に合しないものと認めるのが相当であり原判決はこの点において判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり延いて法令の適用を誤つたものであつて原判決はこの点において破棄を免れない。(中略)

当裁判所の認めた事実並びにこれを認めた証拠は左のとおりである。

被告人は出材人夫をしている者であるが昭和三十年一月二日友人達と集合した際友人の一人から被告人が予て顏見知の山下あき子(当時二十一年)が現在静岡県榛原郡五和村福用駅前のカジヤ雑貨店に手伝いに行つているが男と交際好の娘であるときいたので、同女に交際を求めようと思い、同月三日正午頃右雑貨店に赴き午後五時頃までそこに居たが同女と十分話すことができなかつたので翌四日午後一時頃「近い中に会いたい」等自己の気持を書いた手紙を持つて再び同店に行き、機を見て右手紙を同女に手渡しその返事を待つていたが、あき子は被告人の態度が執拗なのを嫌つて同日午後八時頃被告人が友人の井口武男と近くの酒屋に行き飲酒している間に、友人等と共に帰宅しようとして同店を立ち出て、途中で会つた知人山下寿一(当時二十一年)に頼んで同女の居住先である同村福用三百三十番地坂下武仁方まで送つて貰つた。被告人は右あき子が帰つて行くのを見たので、近くで同女の家に行く道を教り同日午後九時頃右坂下武仁方に赴きその様子を窺つたところ、家の中で若い男の声が聞えたので一旦来た道を少し引き返し、同家に再び行く途中前記山下寿一が坂下方から帰つて来るのに行き違つたので、内心嫉妬を感じつつ同家に至り山下あき子が家の内に居ることを窺つた上口笛を吹いて同女が出て来るよう促したり、同女が外に出るのを待つため同家母屋の雨戸の外側にある縁側にねころんでいたところ、屋内から坂下さわ(当時六十三年)が便所に行くため出て来て、被告人の姿を認め誰何したので「ここはあき子の家か」と尋ねたところ、さわは「違う」と答え「しかしあき子は現にいるではないか」と更に尋ねると、「本当はそうだが今夜はカジヤに泊るからいない」と云つたまま素気なく戸を閉めて屋内に入つてしまつた。そこで被告人はさわが見えすいた嘘を云つてあき子を被告人に会わせないようにするのに腹を立てながらもなおもあき子が出て来るかも知れないと思つて縁側にねころんでいたが、そのうち仮睡し暫くして目がさめると寒くなつたので、母屋から三尺位南にある同家の納屋(間口三間奥行二間杉皮葺平家建)の中に入りそこで所持していた煙草ピースを一、二本喫つて待つていたが、あき子が出て来る様子もなく、時刻も遅くなつたので先程道で出会つた男のことを考えたり、山下あき子や坂下さわの冷淡な態度や仕打等を考えているうち腹が立つてたまらなくなり、その仕返しに右納屋にあるかやに火をつけて納屋の一部を焼き、あき子やさわ等を驚かして欝憤を晴らそうと考え、同日午後十時過頃から十時半過頃までの間に右納屋内に立てかけてあつた多量のかやに所携の燐寸を以て点火するか或は当時喫いかけて火のついている巻煙草ピースを差し入れてかやに燃えうつらせて点火するかのいずれかの方法によつて放火し右かやから同納屋の屋根板等に延焼させて右納屋を全焼焼燬したもので更に火は坂下武仁等の居住する前記家屋に燃え移り右家屋をも全焼したものである。

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